慧然寺の沿革

伽藍

 創建当時
*本堂 間口9間奥行6間  
    本尊 釈迦如来 木坐像丈2尺
    唐銅香炉 丈2尺5寸
*鐘楼 慶安5年(1652年)太田駿河守藤原正儀
    享保9年(1724年)3月24日 田村丹波守政冨
    本所深川には26の鐘があった
*観音堂 方2間 拝殿 3間に2間半 正観世音菩薩 木立像丈5尺8寸
*地蔵堂 方7尺 地蔵尊 金像丈2尺5寸
*坊舎4軒
   寒江庵          開山別伝禅師 寛文8年(1668年)7月24日寂
   樵眼庵(ショウゲンアン) 開祖雲山重原 正徳元年(1711年)12月13日寂
   江村庵          開祖祖燈首座 延宝2年(1674年)6月18日寂
   客膝軒(キャクシツケン) 開祖絶道首座 貞享5年(1688年)2月7日
*位牌堂 間口3間奥行7間半
*大玄関 3間
*庫裏 2棟 2間半6間半 4軒8間
*土蔵
*山門
*番所

寺院 再建の歴史

明暦 3年(1657年) 1月18日
     明暦の大火で焼失
安政 2年(1855年)10月 2日
     安政の大地震にて崩壊(安政の大地震 死者約4300人 倒壊家屋1万戸)
     当山16世月洲和尚が再建 中興の祖
明治26年(1893年) 4月30日
     火災により焼失               
明治30年(1897年)11月
     総代後藤長左衛門氏ら檀信徒の協力にて再建
明治41年(1908年)11月21日
     高橋宅より出火 類焼する 庫裏を焼失する
大正12年(1923年)  9月 1日
     関東大震災の火災にて焼失
大正13年(1924年)  7月
     本堂・庫裏再建する
昭和20年(1945年)  3月10日
     東京大空襲にて焼失
昭和32年(1957年)  9月
     檀信徒の協力にて本堂再建
昭和35年(1960年)  3月
     檀信徒の協力にて書院再建
昭和42年(1967年)
     庫裏再建
平成元年(1989年)
     本堂落慶

慧然寺の開山

開山別伝碩分和尚(寺院を開創した僧侶)

慶長3年(1598年)12月20日生
寛文8年(1668年) 7月24日 没 享年71歳

安房の国里見義弘家臣、黒川大隅守盛勝の子 
11歳の時、浅草大松寺(曹洞宗)の舜鏡禅師について得度 名を舜貞とする。
16歳の時には既に身の丈6尺、万安英種、賢寿和尚に参ずる。
舜鏡禅師が元和6年(1620年)創建した亀有の見性寺(曹洞宗)を再建する。
寛文元年(1661年)63歳の時、深川に蘆村寺を創建。
寛文4年(1665年)68歳の折、月桂寺、雪山和尚に参じ、嗣法され臨済宗に改宗する。
名を舜貞から宗分、そして碩分と改める。

別伝和尚は、他に法身寺を寛永8年(1631年)に創建 祥雲寺 創建不詳 を創建する。

※開山別伝和尚寺族塔(上写真)

開基相光院殿清浄了然大姉(寺院を創立した人)

父は利休七哲と言われた蒲生氏郷の子、秀行(1583年~1612年)会津藩初代藩主。
母は徳川家康の三女、振姫(1580年~1617年)。18歳の時、秀行に輿入する。
忠郷・忠知・琴姫(相光院・崇法院と歴史書にはある)を生む。
この琴姫がのちの開基になる相光院殿である。
夫、加藤忠広について

慶長6年(1601年)肥後国19万5000石の加藤清正の3男として生まれる。
兄弟は4男2女。
慶長15年(1610年)6月24日清正死去。次男忠正が慶長12年(1607年)疱瘡のため9歳で他界したため、慶長16年(1611年)11歳で家督を継ぐ。若年のため、藤堂高虎が後見人となる。しかし元和4年(1618年)牛方馬方騒動(家老同士の権力争い)など政治の混乱が続き、寛永9年(1632年)5月22日江戸参府途上、品川宿で入府を止められ、池上本門寺にて上使稲葉正勝より改易の沙汰があり、出羽庄内藩主酒井忠勝にお預かりとなる。
その後、出羽丸岡で祖母・母・家臣など50名とともに22年間過ごした。
歌を詠み、楽器を奏で、慶安4年(1651年)6月に母が亡くなり、その2年後承応2年(1653年)死去。享年53歳。山形県鶴岡市本住寺に母とともに葬むられた。
その後、家臣のうち6名は庄内藩に召し抱えられる。
加藤家の墓所は熊本本妙寺・山形天澤寺のある。
加藤忠広に何年に嫁いだかは不詳。ただ、年上女房であったらしい。
忠広との間に2男1女をもうける。忠広は琴姫以外に2人の側室がいた。
忠広改易の折、琴姫は出羽には同行しておらず、その後の記録は残されていない。
加藤家家紋について

始めは蛇の目紋を使う。その後、肥後国に赴くおり家臣・兵力・武具等不足しているのを察した秀吉が、讃岐の尾藤知定の武具・調度一切を与えます。その尾藤家の家紋が桔梗でした。
加藤家はこれより、戦には蛇の目紋、慶司には桔梗紋、あと文化的には折墨紋を使うようになりました。
よって、慧然寺は桔梗紋が寺紋であります。

 

臨済宗円覚寺派 三聖山 慧然寺 沿革

慧然寺は、寛永10年(1633年)に赤坂の地(東京都港区赤坂)に曹洞宗、不識山雲巌寺として創建されました。開山は別傳和尚、開基は徳川家康の孫「相光院殿清浄了然大姉」と言い伝えられています。

寺名の由来

寛文元年(1661年)に現在の土地である深川(東京都江東区深川)に移転して、当時の地名廬村より廬村寺と号し、その後、寛文4年(1665年)、曹洞宗より臨済宗に転じ、寺号を三聖山慧然寺と改める。

明治2年(1869年)、明治政府の名にて改称を求められ、現在の寒光寺と改めました。慧然寺の名前は、江戸時代の地図にも掲載されています。

平成28年(2016年)寒光寺の名称を、慧然寺に戻す。

 深川寺町の形成

深川寺町は、現在は白河・三好・平野・清澄・深川あたりを指す。寛永6年(1629年)に深川猟師町が形成されるのと前後して、仙台堀南岸、現在の清澄通りに面した深川2丁目付近に七軒寺町が成立した。(第1期・17ケ寺)
深川猟師町とは、現在の清澄・佐賀・永代辺りで、江戸城へ魚介類を上納する猟師の居住地として寛永6年(1629年)に隅田川東岸に成立した。同町は成立当初から代官の支配を受けたが、正徳3年(1713年)に町奉行所の支配が及んだ後は、代官と町奉行の両支配となる。
その後、明暦の大火後(1657年)幕府の政策もあり寺院は都市の周辺部へと移転を余儀なくされ小名木川から仙台堀川の間に霊巖寺などの浄土宗系の寺院や、浄心寺などの寺院の移転が続きました。(第2期・14ケ寺)
明暦の大火とは、明暦3年(1657年)1月18日から1月20日にかけて、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災。振袖火事・丸山火事とも呼ばれる。
これを機に、隅田川には橋が相次いで掛けられるようになる。
それまでは、家康の江戸防衛のために1594年に掛けられた千住大橋しかなく、その後1659年両国橋、1693年新大橋、1698年綱吉の50歳の祝いに掛けられた永代橋そして1774年に吾妻橋が掛けられる。江戸時代は5つの橋だけであった。
その結果として、深川には寺町と呼ばれる独自の空間が成立することとなる。
明暦の大火で移転してきた寺院の総坪数は6万坪とも言われる。大寺院が構成され、多くの僧侶が行き交っていた。
因みに、これらの寺院は、将軍家や大名家との関係が深く、一般の檀家は持たない無檀家の寺院でした。一般庶民の檀家も移転前の地域との係わりが密で、地元との関係は希薄でした。
そのため、各寺院は門前を賑わし、多くの参拝客を集めるため出開帳・居開帳をはじめとする宗教行事を積極的に行った。
庶民も行動文化といわれる名所巡りや、寺社参拝が広がっており、それと相まって相互作用の中で深川寺町は独自の発展を遂げていきました。
寒光寺は現在深川にある寺院50ケ寺の中で、9番目に移転してきた寺院である。寛永10年(1633年)に赤坂の地(東京都港区赤坂)に雲巌寺として創建。
開山は別傳碩分和尚。原町法身寺・亀有祥雲寺を開山し、亀有見性寺を中興した名僧です。開基は徳川家康の孫「相光院殿清浄了然大姉」と言い伝えられています。三問には、葵の御紋も配されていて徳川家のゆかりを伝えます。

寛文元年(1661年)に現在地である深川(東京都江東区深川)に移転し廬村寺と称していましたが、その後三聖山慧然寺と改称しました。

明治2年(1869年)に、皇室に慧の字のつく方がいるからと改称を迫られ、慧然寺の塔頭寒江庵から名前を取り、現在の寺号である寒光寺と改め現在に至っています。

創建以来数度の火災や戦災で焼失しましたが、昭和30年に本堂を再建。
その後、昭和34年に客殿、昭和42年に庫裡、平成元年に本堂を再建立し今日に至っています。

創建以来禅の心の道場として、又ご先祖の供養の場として今なお歴史を刻み続けています。

寺領

赤坂より深川に移転した折、幕府より境内地約2500坪(南北60間108メートル・東西30間54メートル)を拝領する。
大正12年(1923年)9月1日の関東大震災の後、政府より宅地解放のため千葉の市川市に移転するか、若しくは現在の寺領を開放して残るかを迫られ当時の住職当山18世玄亮和尚が苦渋の決断の末、現在の寺領(境内地約750坪・貸地1800坪余)となる。
現在の敷地は江戸時代の年貢地とされており、のちの墓地があった位置にあたる。

江戸時代の地図

※人文社発行【復刻古地図 深川絵図】より

丸印の中、慧然寺と書かれているのが、江戸時代の本寺院です。

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